1939年当時の鉄道時刻表を使って東京からロンドンまで旅をする仮想旅行記。
いよいよ最終13日目を迎える。1939年8月15日の未明、ハノーバーを出発した国際特急はドイツ南東部に向けて疾走を続けていた。
- #1 プロローグ
- #2 Day 1/東京 - 下関
- #3 Day 2/下関 - 釜山
- #4 Day 2/釜山 - 安東
- #5 Day 3/安東 - 新京 - ハルビン
- #6 Day 4/ハルビン - 満州里
- #7 Day 5/満州里 - チタⅡ
- #8 Day 6, 7, 8/チタⅡ - ノヴォシビルスク
- #9 Day 9, 10, 11/ノヴォシビルスク - モスクワ ヤロスラフスキー
- #10 Day 11/モスクワ ベラルースキー - ストルブツィ
- #11 Day 12/ストルブツィ - ワルシャワ
- #12 Day 12/ワルシャワ - ズボンシン
- #13 Day 12/ズボンシン - ベルリン - ハノーバー
- ルートマップ(Google Maps)
ドイツ帝国の深夜疾走
#9 ワルシャワ中央 - (ハノーバー) - (アーヘン) - オーステンデ桟橋
dep: arr: Nord Expreß L12列車 パリ北/オーステンデ桟橋 行き
深夜帯ということもあり、パリ行きの特急はほとんど停車することなくドイツをひた走っていく。
ハノーバーの次の停車駅はハム。そのあと、ハーゲン、ヴッパータールに止まり、朝4時3分にドイツ西部最大の都市ケルンに到着する。
ケルンやハーゲンは駅の名前の後ろに"Köln Hbf"とHbfの文字が書かれている。HbfはHauptbahnhof(ハウプトバーンホーフ)の略で、"中央駅"といった意味である。ある程度大きな都市の中心にある駅にHauptbahnhofなが冠せられるのがドイツの風習のようだ。
さてハノーバーからケルンの区間だが、通常、主要列車はドルトムント、デュッセルドルフを経由してやや大回りでケルンに到達する。だが、このL12列車を始めとするいくつかの列車はこれらの都市を経由せずハムからハーゲン経由で一直線にケルンにショートカットしてくる。
路線図が細かすぎて意味をなさないぐらい路線網が発達したドイツは、このように列車の特性に応じて様々な運用がされているのだが、特にケルン北部のドルトムントとデュースブルクの間が圧巻で、この間二股に分かれた線路が環状を形成しているので、オランダ、ベルギー、ベルリン、フランクフルト(M.)といったドイツやその周辺国を結ぶ列車がこの間の線路を利用して方向転換し、縦横無尽に各方面へと走り出していく。もしこの時代のこのあたりの駅のホームへ行くことができたら、一日中飽きずに行き交う列車を眺められたのではないだろうか。
ケルンからアーヘンへ
ケルンを朝4時5分に出発すると、いよいよドイツ最後の区間。次の停車駅はベルギーとの国境の町アーヘンである。
アーヘン到着は朝4時59分。1939年8月15日、長かった旅の最後の日の出時刻は、午前5時21分である。日の出まで20分、空はもう明るくなっていることだろう。
結局ドイツ区間は814キロメートルあったにもかかわらず、わずか10時間43分で通過。夜の間に駆け抜けてしまった。
アーヘンの停車時間は12分。ここから先はベルリン国鉄(NMBS/SNCB)の運行となり、15分後にはベルギー領内に入ることになる。
あまりに駆け足で通り過ぎてしまったが、さらばドイツ。
北急行
ところで、我々が乗車しているL12列車の時刻表には、"Nord expreß"という文字が書かれている。直訳すると"北急行"という意味になる。
国際列車華やかなこの時代、アガサクリスティーの小説で有名なオリエント急行を始めとして豪華な国際寝台列車がヨーロッパ内を縦横無尽に運行されていた。この国際寝台特急の運行を一手に引き受けていたのがワゴン・リ社(国際寝台車会社)で、その主力列車の一つが北急行であった。
北急行とは、今、まさに我々が時刻表を追いかけている列車のことだが、パリ、オーステンデからワルシャワ、リガ、ストルプツェを結ぶルートで運行されていた。
1939年のトマス・クックの時刻表を見てみると、巻頭近くに5ページに渡ってワゴン・リーの様々な急行の時刻表が掲載されている。(この時代、トマス・クック社はワゴン・リ社の子会社になっている)
北急行の時刻表を見てみると、西はロンドン、カレー、パリ、東はハンブルグ、コペンハーゲン、ネゴレロエ、リガ、ブカレストと各方面の時刻が載っている。曜日ごとに様々な方面から出発し、併結・分割を繰り返しながら乗客を運んでいたようだ。
トマス・クックの時刻表によれば、この旅で乗車したストルプツェからワルシャワ間の列車は、ワゴン・リのカレー行きの列車の時刻と重なるのだが(毎週木曜日運行)、ポーランドの1938年の時刻表にはそのような言及は見つからなかった。恐らくは、毎日運航する列車に、ワゴン・リーの寝台車が週に一度だけ併結されて運行していたのではないかと想像する。
どのみち木曜日ではないということで、今回の旅はストルプツェからワルシャワはポーランド国鉄の通常の鉄道、ワルシャワから先は北急行に乗車という想像で旅を進めている。また、同じくトマス・クックの時刻表ではブリュッセル-オーステンデ間の北急行の運行が曜日限定となっていたが、ベルギーの時刻表側にその言及がなかったので、毎日運行しているものとする。
北急行 パリ行きの通過時刻表は、欧亜大陸鉄道の時刻表のページでも確認可能です。
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