1939年ごろの時刻表を使って東京からロンドンまでの国際連絡運輸を辿る仮想旅行。
前回、日本を脱出して朝鮮半島の南の玄関口・釜山に辿り着いた。ここからいよいよ本格的な欧亜大陸鉄道の旅が始まる。
京釜・京義線
釜山から先、ドーバー海峡を望むベルギーのオーステンデまでの1万2000キロ余りはすべて鉄路。ここから11日間は、ずっと鉄道に乗り続けることになる。
さて、朝鮮半島部分の時刻表だが前述の通り、日本の時刻表の後ろの方に普通に掲載されている(これは台湾も同じ扱い)。よって、今回も1939年12月の「汽車汽船旅行案内」を片手に旅を続ける。時刻表を見ると、当時朝鮮総督府鉄道局が管理していた鉄道は「朝鮮鐡道局線」と呼ばれていたようだ。(本土の国鉄は鉄道省が管理していたことから「省線」と呼ばれていた。)
釜山から京城(現ソウル)までは京釜線、京城から満州との国境の駅・新義州までは京義線と呼ばれていた。運行は両線一体で行われていて、多数の列車が京城を通過して双方を行き来していた。
この時代、京釜・京義線には、釜山を起・終点とする1本の特急と4本の急行列車が運行されていた。1本は京城行きの特急・あかつき号。2本は北京行きの大陸号と興亜号。残りが満州の首都・新京(現・長春)行きののぞみ号とひかり号である。
のぞみとひかりと言うとどこかで聞いたことのある組み合わせだが、京釜・京義線のそれはどちらかがより速達というわけではなく、午前7時50分に釜山を発車する方がのぞみ号、午後7時に出発する方がひかり号と名付けられているだけである。どちらも新京までの到達時間は27時間ほどとなっている。
なお、時刻表上の表記は「釜山・安東間」と書かれている。安東とは現在の丹東のことで、新義州とは鴨緑江を挟んで向かい合う満州の駅である。当時、満州・朝鮮総督府間の出入国管理は安東で行っており、京義線の事実上の終点が安東となっていため安東までの時刻表がこのページに収められているようである。
新京へ直通する列車は後でご紹介するとして、北京へ行く特急はその後どのようなルートをたどるかというと、安東から南満州鉄道の連京線(大連と新京を結んでいた満州鉄道の本線)の奉天駅(現在の瀋陽)を経て、中国北部と満州を結んでいた奉山線に入る。そして、そのまま中華民国の華北交通社の京山幹線に乗り入れ、北京に向かう。華北交通は、南満州鉄道の資本が入った日本の国策会社で、当時は満鉄と一体的に運行されていたようだ。なお、途中の天津で乗り換えると南京を経由して上海までいくこともできた。
満州直通の国際急行 ひかり
#3 釜山 - (安東) - 新京
dep: arr: 急行 ひかり 新京 行き
では、旅を続けよう。
関釜連絡船で降り立った場所は、現在の関釜フェリーが着岸する埠頭と同じ場所だったようだ。現在では釜山港から釜山の駅までは地下鉄で2駅ほど離れているが、この当時は釜山港の目の前に釜山駅があった。さらに、埠頭の中にまで線路が引き込まれており、特急列車は関釜連絡船との連絡を考慮して埠頭のホームから発着していたようだ。
夜18時に釜山港に降り立った後、1時間後の午後7時に目の前のホームから出発するひかり号に乗り換えることになる。船から上陸したときには、もうすでにホームひかり号が入線していたかもしれない。
また、北京に向かう急行興亜も午後7時40分に出発するので、その入線を待つ人々で待合室はごった返していたはずだ。
釜山を出発したひかり号は、夜中の2時半に京城(現ソウル)に到着する。釜山から京城は7時間半。現在のKTXなら2時間半、在来線特急セマウル号なら4時間半ほどの時間となっているが蒸気機関車の速度と思うとかなりの高速だと言えるだろう。
10分の停車の後に京城を出発し、次は午前4時2分に開城(ケソン)に到着する。南北融和の太陽政策で造成された開城工業団地の名前を聞いたことがある方も多いかもしれないが、現在は開城は北朝鮮領である。
今では閉ざされている南北の鉄路も、この当時は当然自由に行き来することができた。当然平壌にも早朝に停車する。京城から平壌までは5時間と1分。皮肉なことに航空機が発達した現在でも、この二つの街を5時間で行き来することはできなくなってしまっている。
平壌を出発したらあと2駅で新義州である。当時の日本領の国境の駅である新義州だが、停車はわずかに1分。すぐに出発し、列車は鴨緑江を超える。
満州との国境である鴨緑江を超えた列車は次の安東に午前11時20分に到着し、30分間停車する。時刻表の「朝鮮鐡道局線乗客案内」のページには、「朝鮮から満州へ行くときも満州から朝鮮へ帰る時も託送手荷物は安東驛税関検査所で列車内持込の手廻品は列車内で何れも税関の検査があります」とあるので、この間に入出国の手続きが行われたのだろう。
この鴨緑江を渡る鉄路、今では我々は容易に渡ることはできないのだが、現在でも中国・北朝鮮間の交通として健在で、週4本、両国間を結ぶ国際列車が運行されている。
さて30分の停車時間を経て、列車は満州鉄道の安奉線を北上するわけだが、続きはまた次回。
なお、釜山からここまでの約950キロの表定速度は、時速57キロ。この時代までに京釜・京義線は複線化が完了しており、本土の東海道線などとそん色ない速さで移動できていたようだ。
急行ひかりの通過時刻表は、欧亜大陸鉄道の時刻表のページでも確認可能です。
- 汽車汽船旅行案内 昭和14年12月号 (1939年) 旅行案内社 / 復刻版 (1993年) アテネ書房
- 鉄道省編纂 汽車時間表 昭和15年10月号 (1940年) ジャパン・ツーリスト・ビューロー / 復刻版 (1999年) JTB
- 日本鉄道旅行地図帳 歴史編成 朝鮮 台湾 (2009年) 今尾恵介・原武史 監修 新潮社
- Korail サイト
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