2020-08-11

特別編 1939年 欧亜大陸鉄道の旅(#3 Day 2/下関 - 釜山)

 第二次世界大戦直前、1939年ごろの世界中の時刻表を使って、当時の鉄道による国際連絡運輸の様子を探る仮想旅行。
 2日目は下関から関釜連絡船で日本海を超え、いよいよ大陸へ渡る。

 1939年8月4日の朝、前日の午後東京駅を出発した特別急行ふじ号は、終着駅の下関駅に到着する。
 ホームのすぐ向こうに連絡船の発着する桟橋があり、九州の門司、朝鮮の釜山へ向かう連絡船が入れ替わり立ち代わり停泊していた。

関釜連絡船

関釜連絡船時刻表
左隣は関門連絡船の時刻表

 1939年当時日韓併合下にあるため朝鮮半島は国内扱いで、関釜連絡船も国内航路となっている。そのため、時刻表にもまるで山陽本線の延長線のような扱いで雑に掲載されている。前回に引き続いて、昭和14年(1939年)12月の汽車汽船旅行案内を見ていこう。
 この当時日朝間の往来は非常に盛んであったらしく、一日三往復で運航されていた。時間は午前10時半、午後10時半、午後10時50分、乗船時間は7時間半となっている。
 下関―釜山間のフェリーは現在でも就航しているのだが現在は夜行便のみで12時間かけて関釜間を運航しているので、現在よりもかなり高速な輸送体制だったということになる。(といっても、現在の関釜フェリーは早朝早く着き過ぎるのを避けるため、到着地の沖合で数時間停泊してから入港しているので、船自体が今よりも高速だったというわけではないと思われる。なお、関釜フェリーの乗車記は、当ブログのこの記事を参照。)

 関釜フェリーの埠頭の隣では、九州門司への連絡船も就航していたはずだがこちらは圧巻の一日54往復。一時間に数本という頻度で本州と九州を結んでいたようだ。

 ところで、関釜連絡船の時刻表を見ていた面白いものを発見した。船内の食堂の値段が書いてあり、夕食の洋食が1円50銭、和食が1円、カレーが30銭となっていた。カレーは最も安い簡易食の扱いのようなので、今の感覚で言うと500円ぐらいなのだろうか?
 カレーを500円と仮定して、今回の旅の運賃を計算してみよう。

カレー1杯を500円と仮定したときの各種運賃
経路等級当時の運賃現在価格
関釜航路一等12円15銭20,250円寝台料金込
二等7円10銭11,833円寝台料金別
三等3円55銭5,917円寝台料金別
ふじ 特急料金
+運賃
一等7円50銭 + 28円71銭60,350円寝台料金 5-7円
二等5円 + 19円14銭40,233円寝台料金 3-4.5円
三等2円50銭 + 9円57銭20,117円寝台料金 1-1.5円
大連 - パリ運賃一等637円96銭1,063,267円
二等530円74銭884,567円
三等348円36銭580,600円
大連 - パリ料金は「満州支那汽車時間表 昭和十五年八月号」参照

 日本からヨーロッパまで三等であれば約60万円で行くことができたという計算になった。当時の大学卒の初任給が80円程度(カレー換算だと約13万円)だったという話もあるので、相当恵まれた立場でなければ行くことのできない旅行だったのは間違いなさそうだ。

#2 下関 - 釜山
dep: arr: 関釜連絡船

 特別急行ふじで一夜を過ごし、下関に到着したのは朝9時25分。
 関釜連絡船の出発までは1時間と5分。下関見学をすることもなく、慌ただしく駅構内の連絡船の桟橋に向かう。
 船に乗り込み、荷物の整理をしているうちに連絡船は下関港を出港する。夏場の台風でも来ない限りはあまり揺れることは無いはずなので、快適な船旅を迎えることができたのではないだろうか。

 乗船した船は夜行便ではないので就寝することなく7時間の航海を終えると、18時に釜山港に到着する。当時、日本と朝鮮、それに加えて満州まで日本標準時を採用していたので時差はない。おそらく、まだ空は明るかったはずだ。
 釜山からは再び鉄道に乗り換える。次の列車は特急ひかり 新京行き。新京とは満州国の首都で、現在の長春のことである。つまり、ひかり号は朝鮮半島から満州国へ連絡する国際連絡列車ということになる。ここからいよいよ本格的なユーラシア大陸横断の旅が始まるわけである。

現在の釜山港(2014年12月29日撮影)

大陸連絡ルート

1939年当時の日本と大陸を結んだルート

 今回は、下関から釜山に渡る連絡ルートをお伝えしているが当時日本から中国大陸に渡るルートは他にもいくつか存在していたので、ご紹介する。
 汽車汽船旅行案内の巻頭に「日朝満支連絡略図」というページがある。それによれば、神戸-門司-大連、敦賀・新潟-羅津(ラソン)が主要ルートとして記されている。
 神戸-大連ルートは乗り換え回数の少ないルートして重宝されていたようで、2日に1回の頻度で大阪商船の船が出航していた。この大連ルートは、大連に渡った後満鉄の看板特急あじあ号に乗車して満州を北上する。あじあ号は緑色の流線型の蒸気機関車パソナ号が豪華客車を引いて大陸を疾走する、当時の憧れの超特急だった。
 羅津は現在は北朝鮮の領内で豆満江を挟んで中国、ロシアと向かい合う貿易の要所である。この時代満州への近道として開発が進められていた場所だということであるが、日本と結ぶ船は3日に1日しか出港しておらず、それほど利用者は多くなかったようである。

羅津経由のウラジオストク航路

 この図にはないが、敦賀とウラジオストクの間も羅津航路を延長する形で5日に一度程度の頻度で船で結ばれていた。このルートはウラジオストクで直接シベリア鉄道に乗り込めることから、ヨーロッパへのルートとして利用されていたようだ。
 これらのルートを日欧連絡の観点で比較すると以下の通りとなり、日数的には釜山経由のルートが最速となる(全てのルートが合流するソ連のチタまでの日数で比較)。ただし、シベリア鉄道が、シベリア発、満州里発がそれぞれ週2日のため、うまく接続できないと足止めを食らうことになる。(今回の旅が8月1日出発ではなく、8月3日出発なのもそのため。)

日数釜山経由大連経由羅津経由ウラジオストク経由
1東京東京→神戸東京東京
2下関→釜山門司新潟敦賀
3新京(現・長春)
4ハルビン大連→ハルビン
5満州里ハルビン羅津→新京
6チタ満州里ハルビンウラジオストク
7チタ満州里
8チタ
91940年以降は1日短縮
10チタ

 乗り換え回数で選べばウラジオストク経由、速さで選べば釜山経由となるが、果たして当時の人々はどのような基準でルートを選んだのであろうか?

参考文献
  • 汽車汽船旅行案内 昭和14年12月号 (1939年) 旅行案内社 / 復刻版 (1993年) アテネ書房
  • 鉄道省編纂 汽車時間表 昭和15年10月号 (1940年) ジャパン・ツーリスト・ビューロー / 復刻版 (1999年) JTB

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