2022-12-06

東北 北海道 秋の北上作戦 (前編)

東北 北海道 秋の北上作戦 2022/9/22-25

 2022年8月8日、長万部に突然高さ30メートルの巨大な水柱が表れた。後に、60年前のボーリングの跡から噴き出したことがわかるのだが、当初は全く謎の現象として話題となった。
 水柱は1か月以上、昼夜問わず吹き出し続けた。
 これは一度姿を拝んでおかねばなるまいと、秋の連休を利用して北海道に出かけた。
 ただ長万部に行くだけではもったいないので、仙台から長万部まで北上しながら、東北・北海道の未踏破私鉄を乗り潰していこうと計画した。
 今回のターゲットは、仙台空港鉄道、三陸鉄道、津軽鉄道、函館市電の四社局6路線。
 まずは空路で仙台空港入りし、北上を開始する。

仙台空港アクセス線

(左上)仙台空港駅
(右上)名取から仙台空港までが仙台空港鉄道 全列車仙台空港アクセス線として仙台駅に直通する
(下)駅の向井は仙台空港のターミナル 仙台空港鉄道仙台空港線
名取・仙台空港駅

 長万部に行くのにわざわざ遠く離れた仙台の地に降り立ったのにはわけがある。杜の都で乗り残した微妙な盲腸線・仙台空港鉄道に乗りたいがために空路で仙台入りをしたのだ。
 JR東北本線の仙台駅から南に4駅、約10キロ先の名取駅から仙台空港まで仙台空港線仙台線が伸びている。距離は7キロで中間駅は2つ。仙台駅から仙台空港駅までは原則直通で運転されていて仙台空港アクセス線と呼ばれている。
 仙台空港駅は、空港ターミナルの道を挟んですぐ目の前にある。ターミナルと駅の間はペデストリアンデッキでつながっていて、アクセスは抜群。
 肌寒くなってきた東北を名古屋の格好そのままの半袖一枚で闊歩して、仙台空港駅に到着する。改札を抜けると、まだ電車の到着まで5分以上あるというのにホームが乗客でごった返している。わりと広めのホームだが、スーツケースを引きずった空港の乗客をさばくにはやや手狭なようだ。

 9時48分の仙台駅行きの列車に乗車する。
 仙台空港を出発すると線路は高架から一気に地下に潜り滑走路をくぐる。すぐに高架に戻り、田園地帯を真っすぐ進んでいく。
 中間駅の美田園駅と杜せきのした駅はどちらも駅前にショッピングモールやホテルが建てられていて沿線開発も進んでいるようだ。乗客も多そうだし単線では少し勿体ないように見えた。

名取・名取駅

 あっという間に10分で名取駅に到着。これで仙台空港鉄道全線制覇完了。瞬殺。
名取駅は東北本線に加えて常磐線直通の列車も乗り入れる2面3線の大きな駅。だが、さっきの仙台空港駅に比べたら乗客はまばら。JRの駅「あるある」ではあるが、乗客数と駅の広さがどうもアンバランスだよね。
 しばらくしてやってきた仙台行きの電車に乗り、仙台を目指す。

気仙沼

気仙沼駅 第18共徳丸が打ち上げられていた交差点 震災後の火災で焼失したドラッグストアも復活 気仙沼港周辺もきれいに整備されていた
仙台・仙台駅

 仙台空港鉄道の次は、三陸鉄道の制覇に向かうのだが、仙台から三陸鉄道の南端・盛駅まではとてつもなく遠い。最短ルートでも仙台から一ノ関まで新幹線で移動し、その後は大船渡線で気仙沼に向かい、そこからからバス転換されたBRT大船渡線に乗り換えてようやくたどり着く。時間にして半日がかりである。
 ということで、この日は一旦気仙沼まで移動し一泊することにした。
 前回気仙沼に訪れたのは今から10年前の2012年の1月。東日本大震災からまだ1年経っていない時期であり、当時は建物は震災の傷跡が生々しく残っていた。
 あれから10年経って町並みがどう変わったのかの確認をしてみたかったのだ。

気仙沼・気仙沼駅

 新幹線と大船渡線を乗り継いで気仙沼駅にたどり着いたのは午後2時過ぎ。
 気仙沼駅は大渡線の終点で、この先乗り継ぐ線路はない。東日本大震災までは、気仙沼の南に気仙沼線、北に大船渡線が伸びていたが、津波によるの被災後、鉄道としての復旧を断念し、線路跡をバス専用路として活用したBRTに置き換えられた。
 同一ホームで鉄道とBRTがスムーズに乗り換えられるよう、元線路のバスの専用路は嵩上げされている。
 明日、盛駅に向かうときにBRTに乗車するが、本日は駅前の観光案内所で自転車を借りて気仙沼の港へ向かことにした。

気仙沼・鹿折

 まずやってきたのは、津波で巨大な漁船・第18共徳丸が打ち上げられていた鹿折(ししおり)地区。この地域は、津波とその後に起こった大火災で建物という建物が洗いざらい破壊された。
 10年前に訪れた時は、ようやくそがれきの撤去が進んだ頃であっため、ぬかるんだ地面にポツンと漁船が鎮座していたのだが、今はきれいな交差点になっていた。近くのドラッグストアが津波と火事で骨組みだけになっていたが、同じ場所で見事に復活しているようだ。
 見渡してみると全ての建物がこの10年以内に建てられていてピカピカであるのだが、一方で整地されたまま放置されている土地も多く、震災前の通りにはやはり戻っていないように見える。

 鹿折地区は気仙沼港から1kmほどの距離にある。この距離を船が流されたのかと実感しながら自転車で港に向かう。
 10年前港にも訪れたのだが、ここもまた見違える姿に変わっていた。当時男山という酒造メーカーの建物が傾いたまま放置されていたのだが、この建物はなんと同じ意匠でしかも増築して建て直されていた。
 破壊されていた観光船の桟橋も当然復活しており、港の前にはおしゃれなカフェもある。
 カフェでコーヒーをいただきながら港を眺めていたが実に静かな港である。ここに津波がやってきたと思うと、世の中何がおきるかわからないと改めて思う。

気仙沼駅のBRTホーム 線路がアスファルトで覆われホームの高さまで嵩上げされている BRTの専用軌道の様子
気仙沼・気仙沼駅

 翌日は早朝からBRTで盛駅へと移動を開始する。
 気仙沼のBRTホームから出発したバスは、そのままどうみても鉄道用地という狭い単線の道を突き進んでいく。本来バスが入ることができない狭さの道なので、一瞬鉄道かと錯覚するが、そこに線路はなく、平らなアスファルトが敷かれている。
 駅の近くに一般道と交差する場所があるのだが、通常とは異なりバス専用路側に誤侵入防止の遮断機があった。バスが通るときのみ遮断機が開く仕組みとなっているようだ。
 おー! これがBRTいふものか!!
 と、興奮していたのだが専用道路を走る時間は意外と短く、気仙沼を出て数キロで一般道に出て行ってしまった。そこから盛駅の手前10キロまでは1時間ほど延々と普通の道を走るただのバスとなる。
 もともとは専用路の区間はもっと長かったらしいのだが、震災復興事業で高速道路並の高規格道路ができたことによりルートが変更され、今の形になったようだ。高速道路を走ることができ、なおかつ生活動線に沿って小回りが効くバスと、専用軌道が必要な鉄道との力量の差を確認するに、鉄道地方路線の維持は厳しいなぁと痛感する。

 高速っぽい道を降り、いくつかのバス停を経て、震災の被害が特に甚大だった陸前高田市街地に入っていく。この後、幾度となく同じ景色を見るのだが、進撃の巨人のごとく高くそびえる防波堤に守れた土地が広々と整地され、ところどころに真新しい建物が建っていた。震災後の三陸地方の新たな街並みではあるのだが、その街にあったはずの街の歴史を津波がきれいに洗い去ってしまったのだなぁと感じると、なんだか寂しい気持ちにもなる。
 陸全高田の駅の跡地のバスターミナルを経由し、バスはいよいよ盛駅のある大船渡市に向かっていく。
 しばらく海沿いを走り、いよいよ大船渡市に入るという直前でようやくバスは専用線に戻るのだが、そこから盛駅までは30分弱。あっという間に到着する。
 結論としては、BRTは「ほぼ」ただのバスである。

三陸鉄道

三陸鉄道とJRの盛駅 盛駅左側がBRTの専用軌道、右側が三陸鉄道の線路
奥に旧岩手開発鉄道の旅客ホームが見える 三陸鉄道 リアス線 (上)三陸鉄道の車窓からは城壁のような巨大な防波堤を何度も見た
(左下)途中下車の要諦はないが、片道切符と同じ料金なので途中下車きっぷを買った
(右下)天気が悪くなってきた 三陸鉄道の久慈駅
隣には立派なJRの駅舎が建っている
大船渡・盛駅

 BRTこと「ほぼ路線バス」に乗り、1時間半ほどかけてようやく盛駅に到着した。盛駅もまた気仙沼と同じようにBRTと三陸鉄道が同一ホームで乗り換えられるような、ホームに直付けされたバス用のアスファルト路がかさ上げされた作りになっている。
 この駅にはかつて岩手開発鉄道というとんでもない辺境の私鉄があった。旅客だけでなく貨物輸送もあったため、1992年までは奇跡的に生きながらえてきたのだがさすがに旅客輸送は廃止となってしまった。しかしながら貨物輸送は今でも続いており、三陸鉄道の盛駅のホームから少し離れた場所に当時の駅舎が残っているのが見える。

 三陸鉄道は盛駅から久慈駅までその名の通り三陸海岸の沿って163kmに及ぶ長大な鉄道。元々は北と南線路が分かれていたのだが、震災後JRから分離された山田線を吸収して一つの路線となった。
 その名残か、今でも運転系統は概ね3つに分割されていて、全線を直通する列車は一日上下合わせて5本のみ。その貴重な1本にのって盛から久慈へ一気に北上する。

大船渡・盛駅

 まずは最初の区間盛から釜石まで、かつては南リアス線と呼ばれていた区間を走破する。この区間の乗車時間は約1時間。
 三陸鉄道はその名の通り全線三陸海岸に沿って線路が敷かれている。リアス式の三陸海岸は時折大きく入り江が陸側に食い込んでいて、集落はたいていその部分にある。線路もその集落を結ぶように走っているので、森あるいはトンネルと入り江が交互に車窓に現れることになる。
 線路から見える入り江とその周辺集落は根こそぎ津波にやられているので、どこも真新しく巨大な護岸と整地されたばかりの土地となっている。
 こうやって見ると、平らな土地は入り江周辺にしかなくその狭い土地にへばりつくかのように人間は暮らしていることがよくわかる。森にしろ海にしろ脅威となった時は人間ではとても立ち向かえないことが身に染みてよくわかる。

釜石・釜石駅

 1時間ほどで釜石駅に到着。花巻方面のJRの釜石線はここで乗り換えとなる。おそらく震災で建て替えを強いられたらしく、駅舎もホームもまだ新しく見える。
 続いて乗車するのは震災前まではJRの山田線であった釜石から宮古までの区間。
 といっても、ぶっちゃけ車窓はあまり変化しない。あえて言えば旧国鉄だっただけにやや線形が良く、やや内陸を走るトンネルが多くなった気がする。海が見えない分、やや退屈してくる。
 乗車時間は宮古駅まで1時間半。宮古駅ではこの列車最長の15分間停車時間がある。

宮古・宮古駅

 宮古から先の盛岡までの山田線は未だにJRの路線として現存している。かつては山田線の駅に三陸鉄道の北リアス線が乗り入れるような構造だったのだが、宮古-釜石間が三陸鉄道に移管され、どちらかというと三陸鉄道に山田線が乗り入れる形となった。その名残か列車はJR側のホームに停車し、出発後転線して三陸鉄道の線路に入っていった。
 ここでも車窓にこれといった変化はないのだが、北上すればするほど震災の影響が少なかったらしく、古くからの漁港や建物をぼちぼち確認できるようになる。

久慈・久慈駅

 4時間半に及ぶ旅を終えてようやく久慈駅に到着。これにて三陸鉄道制覇完了。いや長かった。
 久慈駅からさらに北に線路が伸びているがこちらはJR東日本の八戸線となる。
 改札を出てみると小さな古いなんだかヤマザキのパンでも売っていそうな三陸鉄道の駅舎といかにも駅という立派なJRの駅舎が並んでいる。昼飯時なので、何か食べ物はないかと見渡すと三陸鉄道の駅舎の中に立ち食いそば屋があった。おお昼ごはん確保!と思ったのだが、忙しいのか一見さんお断りなのか目の前の立っているはずの店のおじさんにシカトされ続けた挙句、時間切れでやむなくJRの駅舎を目指すことになった。
 「久慈のおもいで」は、ただひたすらに空腹である...。

青森へ

(上)トンネルを抜けると三内丸山遺跡が現れる
(左下)発掘の跡は建物内に保護されている
(右下)当時の住居が再現されている
久慈・久慈駅

 三陸鉄道の次は津軽半島のローカル私鉄、津軽鉄道の制覇を目指すのだが、久慈から津軽鉄道の起点・津軽五所川原駅までは、またとんでもなく遠く、果てしない道のりがまっている。八戸線で八戸へ移動し、そこから東北新幹線で新青森へ、さらに奥羽本線、五能線と乗りついでようやく到着する。
 時刻表上、ギリギリ今日中にたどり着けないこともないのだが、深夜に津軽鉄道に乗車するのも気が引けるので、本日は新青森泊まりとすることにした。
 というわけで、まずは八戸線で八戸駅を目座す。
 八戸線は三陸鉄道の続きのような路線なので、最初の内は三陸鉄道でさんざん見続けたリアス式海岸の景色が続くのだが、途中から三陸海岸から離れ内陸の八戸に向かっていく。
 最初はまばらった乗客も、八戸に近づくにつれて徐々に増えていった。
 八戸の中心街は八戸駅ではなくその手前の本八戸駅が最寄り駅。その数駅手前で、白シャツ、半ズボン、金のネックレスに、NEW ERAのシール剥がしてないキャップという、中世の絵画の中から出てきたかのような出で立ちの青年が、俺の前の席に座ってきた。いつラップバトルを仕掛けられのかと戦慄し、何とかリリックをしたためていたのだが、俺の醸し出すエモいオーラに恐れをなしたのか、元八戸駅で列車を降りたyo!

八戸・八戸駅

 八戸で東北新幹線に乗り換え、新青森駅へ。八戸から新青森までわずか25分。やっぱり早いぞ新幹線。

青森・三内丸山遺跡

 ところで、新青森駅のすぐ近くに、世界遺産の三内丸山遺跡がある。
 駅から遺跡の入り口まで数キロで、タクシーだと10分かからない距離。何の予備知識もなく、タクシーで三内丸山遺跡に向かったのだが、降ろされた場所にあったのは想像していたのと違うやたら立派な建物だった。目の前に鎮座するのは縄文時遊館と名付けられた博物館らしい。肝心の遺跡はどこにあるのかというと、その博物館に繋がったトンネルを抜けた丘の向こうにあるそうだ。
 博物館で、三内丸山遺跡の遺跡の学習をし、いざ縄文時代へつながるタイムトンネルをくぐる。トンネルを抜けると広々とした野原が広がり、縄文人のムラが再現されている。
 遺跡内には復元された住居や倉庫、それに建物に覆われて保存されている発掘現場が点在している。
 佐賀の吉野ヶ里遺跡を見た時にも思ったけど、古代の遺跡は面白い。
 科学的研究成果に基づいて復元された遺跡とは言え、所詮は想像の産物でどこまであっているか怪しいもの。半分は信じて、半分は疑いながら、遺跡や周辺の景色を眺め、自分なりの古代の人々の生活をイメージすることが自由が古代遺跡にはある。
ムラの中央には大きな柱穴が発見されており、10メートルを超える巨大な建物が建てられていたらしい。重機のない時代に建てるにしては大きな建物だが、なんらかの公共の設備だったのだろうか? あるいは権力者の家なのか?

 ところでこの山内丸山の地だが、縄文人は紀元前に2000年以上定着していたそうだ。
 確かに穏やかな素敵な場所には見えるが、冬の寒さは厳しいはずで、なぜ定住したのかできることなら縄文人に聞いてみたいものである。

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