1999-10-04

特別編 1939年 欧亜大陸鉄道の旅(中国編 Day 2, 3, 4, 5, 6/釜山 - 奉天 - 北京/天津北 - 上海)

 戦前、1939年頃の世界の時刻表を辿る仮想旅行。
 前回まで東京からロンドンまでの12泊13日の長い旅路を追ってきた。
 最終目的地のロンドンにたどり着いたのだが、当時の国際連絡運輸の目的地はロンドンだけではない。途中の各駅で乗り換えることで、世界各国の主要都市に向かうことができた。
 そこで、おまけとして、時刻表を所有しているいくつかの国への経路を紹介していきたい。まずは、中国の北京そして魔都と呼ばれた国際都市・上海への道のりをたどってみよう。

南満州鉄道路線図 乗車ルートを赤色で着色
華北交通/華中鉄道路線図 乗車ルートを赤色で着色

北京へ

#3 釜山 - 北京
dep: arr: 急行 興亜 北京 行き

釜山から奉天までの時刻表
この区間はひかり号と同じルート

 実は北京へ向かうためには、関釜連絡船で釜山に降り立った後、北京直通の急行・興亜に乗ればよいだけである。東京から釜山にたどり着いた#3 Day 2/下関 - 釜山の続きから旅をスタートする。
 ヨーロッパへ繋がる新京方面へは19時ちょうど発の急行・ひかりに乗車したのだが、北京行きの直通急行である興亜号はその40分後に釜山を出発する。おそらくはひかりが出発した後興亜が入線し、折り返して発車したのであろう。
 興亜は朝鮮区間と満鉄の奉天まではひかり号と同じ経路を通る。釜山から京城(現ソウル)までは京釜線、京城から国境・新義州までは京義線、国境を越え安東から満鉄に乗り入れ、奉天までは安奉線を走破していく。
 時刻表を追いかけても、ひかり号の隣に興亜号の時刻が表示されているのが確認できる。


奉山線の時刻表

奉天に到着するのは翌日の18時半。ここからは満鉄・奉山線に入り、徐々に進行方向を南に変えながら中国に向かっていく。
 日付が変わって4日目の未明、興亜は満州と中国の国境駅・山海関に30分ほど停車する。朝鮮、満州と走り続けた興亜号は、ここから中華民国へ乗り入れることになる。


京山幹線の時刻表

 1939年当時、中国は日中戦争の最中であり、華北地域は日本の勢力圏にあった。山海関から先は華北交通という鉄道会社の路線となるのだが、この会社は実質的には満鉄のグループ会社であり、多くの元満鉄の社員が運営にかかわっていたようだ。
 満州の時刻が載っていた支那汽車時間表に華北交通の時刻も掲載されているので、この時刻表で列車の時刻を確認していく。当時、満州国は日本時間を採用しており中国とは1時間の時差があったはずなのだが、支那汽車時間表は中国の列車も日本時間で表記されている。よって、実際の時刻は時刻表より1時間繰り下がることになる。
 なお、日本時間表記が時刻表の上だけのものだったのか、当時、華北交通自体が日本時間で運用されていたのかはよくわからなかった。
 さて、山海関から北京までの路線は、京山幹線と呼ばれていた。
 未明に山海関を出発した興亜号が終点・北京に到着するのは、朝9時35分。早めに起きて列車を降りる準備をしなくてはならないようだ。

 さて、朝降り立った北京の駅だが、現在の北京駅とは全く違う場所にあった。
 紫禁城の南方の入り口にあたる正陽門の前方が当時の駅があった場所だ。南から正陽門を正面に見て、右側に京山幹線の駅があり、それに相対するように、左側に広州方面へ向かう京漢幹線の駅があったらしい。正陽門から東西に分かれて出発する中国大陸横断列車、今はない壮観な景色である。

 急行 興和の通過時刻表は、欧亜大陸鉄道の時刻表のページでも確認可能です。

1939年 欧亜大陸鉄道の旅 北京編 まとめ
#乗車下車列車記事
18/3 15:00(GMT+9) 東京8/4 9:25(GMT+9)下関特別急行ふじ 下関行き#2
28/4 10:30(GMT+9)下関8/4 18:00(GMT+9)釜山関釜連絡船#3
38/4 19:40(GMT+9)釜山8/6 9:35(GMT+8)北京急行 興亜 北京 行き
総乗車距離:3,391km
総乗車本数:3本
所要時間:2日19時間35分

上海へ

#4 天津北 - 浦口
dep: arr: 101列車 浦口 行き

津浦線の時刻表

 続いて、当時、そして今でも中国経済の中心地上海へ向かってみよう。
 上海へ向かうには、北京の手前で京山幹線の天津北駅で興亜号を降りて、南へ向かう津浦線に乗り換える必要がある。
8月6日午前7時9分に天津北駅で興亜を降りた後、津浦線の列車が発車するまでは4時間程時間がある。駅で昼食ぐらいならありつけたのだろうか?
 午前11時2分浦口行きの列車が発車する。浦口というのは長江手前の駅で、南京の対岸にあたる。当時はまだ長江を渡る橋は架橋されていなかったため、鉄道は浦口で打ち止めになっていたのだ。
 列車は一昼夜走り続け、翌日の午前11時30分で蚌阜駅で20分程停車する。この駅で華北交通の路線は終わりとなり、ここから先は華中鉄道という別の会社の路線となる。
 華中鉄道もまた日中戦争の最中に日中合弁で設立された鉄道会社であり、南京を中心とした華中地域の鉄道運営を行っていた。
 会社は変われど華北交通と相互乗り入れを行っていたので、乗客的には何事もなく先へ進むことができたのではないかと思われる。
蚌阜からさらに5時間南にひた走り、夕方16時50分に終点・浦口に到着する。

 101列車の通過時刻表は、欧亜大陸鉄道の時刻表のページでも確認可能です。

#5 浦口 - 南京
dep: arr: 南京浦口輪渡 南京 行き

浦口は津浦線の終点とは言え、実質的には対岸の南京への連絡船の乗り換え駅に過ぎない。
 当時の浦口、南京間には列車の到着に合わせて、一日何本もの連絡船が運航されており、両岸のターミナルを結んでいた。
このあたりの長江の川幅は約1キロほど。連絡船の乗船時間は10分だったようだ。
 浦口駅があった場所は現在の南京北駅にあたる場所で、長江を渡る橋ができた今となっては旅客扱いのない貨物駅となってしまっているようだ。(高速鉄道の南京北駅が建設されているが、それとは別物)。


#6 南京 - 上海
dep: arr: 急行 上海 行き
海南線の時刻表

 連絡船に10分ほど揺られて、長江の対岸・南京駅に到着する。この南京駅もまた現在の駅とは違う駅で、場所は現在の南京西駅とその隣の貨物駅があるあたりにあったようだ。この当時の駅舎は現存していて、いずれ鉄道博物館として公開される予定があるらしい。
 南京からは再び鉄道に乗り換え上海へ向かう。上海までは海南線という路線で1本なのだが、夕方のこの時間で、すでに上海までの最終列車が出発してしまっている。戦争の混乱の影響なのか、列車の運行本数はあまり多くなかったようだ。

 東京を出発して以来、今回の旅で初めて市中のホテルにて1泊し、翌朝7時ちょうどに南京を出発する上海行の急行に乗車する。
 上海までは4時間半、長江に沿って東へ、東へと突き進む。
 昼過ぎ、欧米の列強各国の利害がひしめく魔都と呼ばれた街・上海に到着する。
 上海駅もやはり現在の上海駅ととは異なっていて、現在の上海駅から2キロほど東へ進んだ場所にあったようだ。一時は上海北駅と呼ばれていたようだが現在は廃駅となり、鉄道博物館の建物として活用されている。
 現在、鉄道博物館として残っている建物は当時の建物を模した建物で比較的新しい。
 ここへは一度足を運んだことがあるのだが、なんとなく建物が小さく、妙にレプリカ臭かったのを覚えている。想像だが、元の建物の一部だけ復元したのか縮小復元したのか、そんな感じに見えた。

 急行 4列車の通過時刻表は、欧亜大陸鉄道の時刻表のページでも確認可能です。

現在の上海鉄道博物館(2018年10月14日撮影)
日本郵船の神戸-門司-上海航路

 ところで、5泊6日でたどり着いた東京から上海への旅だが、実は当時、日本郵船の航路を利用するという選択肢があった。
 門司から上海まで船ならわずか2泊、東京から門司までの鉄道での1泊を入れても、トータル3泊4日である。おそらくは、今回のような朝鮮周りの鉄路ルートで東京から上海に行く人はいなかったのではないかと思われる。

1939年 欧亜大陸鉄道の旅 上海編 まとめ
#乗車下車列車記事
18/3 15:00(GMT+9) 東京8/4 9:25(GMT+9)下関特別急行ふじ 下関行き#2
28/4 10:30(GMT+9)下関8/4 18:00(GMT+9)釜山関釜連絡船#3
38/4 19:40(GMT+9)釜山8/6 7:09(GMT+8)天津北急行 興亜 北京 行き
48/6 11:02(GMT+8)天津北8/7 16:50(GMT+8)浦口浦口 行き
58/7 17:20(GMT+8)浦口8/7 17:30(GMT+8)南京南京浦口輪渡
68/8 7:00(GMT+8)南京8/8 12:30(GMT+8)上海急行 上海 行き
総乗車距離:4,577km
総乗車本数:6本
所要時間:4日22時間30分

参考文献
  • 汽車汽船旅行案内 昭和14年12月号 (1939年) 旅行案内社 / 復刻版 (1993年) アテネ書房
  • 満州支那汽車時間表 昭和15年8月号 (1940年) ジャパン・ツーリスト・ビューロー / 復刻版 (2009年) 新潮社
  • 日本鉄道旅行地図帳 歴史編成 朝鮮 台湾 (2009年) 今尾恵介・原武史 監修 新潮社
  • 日本鉄道旅行地図帳 歴史編成 満州 樺太 (2009年) 今尾恵介・原武史 監修 新潮社

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