突如世界に現れた未知のウイルスとやらのせいで旅に出られない世の中になってしまいました。まさか、旅行がこんなに難しい時代がくるとは夢にも思っていませんでした。
しかし旅立つことができないのならば、せめて空想旅行でもしてみましょうということで、今回は趣向を替え、第二次世界大戦直前、1939年の世界中の時刻表を利用したユーラシア大陸横断の空想鉄道の旅をお送りする。
在りし日の欧亜連絡鉄道
まずは、何故「1939年の世界の旅」なのかという話。まずは、これをみてほしい。
これは昭和9年(1934年)12月のジャパン・ツーリスト・ビューロ(現JTB)時刻表の1ページである。当時の時刻表を表紙から順に見ていくと、路線図、巻頭特集、目次、東京以西・以北の主要列車の時刻表が続き、次がこのページである。
タイトルの漢字をカタカナに直すと「日本・モスクワ・ローマ・ベルリン・ロンドン・パリ間連絡」と書かれている。タイトルの下は時刻表で、東京からロンドン、パリまでの時刻表が書かれている。
「鉄道時刻表になぜパリが?」
と思うかもしれないが、この時代日本から朝鮮半島に渡り、そこから鉄道でロンドン、パリまで行くことができる国際運輸制度があったのだ。
隣には運賃表も掲載されており、東京からロンドンまで一等車で181円70銭と書かれている。つまり200円ほど用意すれば、東京駅で「東京からロンドンまでの切符」というものが買えたということである。
人々が飛行機でヨーロッパに旅行に行くことができるようになったのは、第二次大戦後の話である。それよりも昔、20世紀初頭までは船で海を超えるしか手段がなかった。
だが、第一次世界大戦から第二次世界大戦までのわずかな期間、鉄道が長距離旅行の主役になった時代があった。この時刻表はそのわずかな時代の貴重な証人なのである。
時は遡って1904年。日露戦争の最中にロシア帝国の手によってシベリア鉄道が建設される。シベリア鉄道によってヨーロッパからアジアまでの鉄路が一本に繋がることで、鉄道でのユーラシア大陸を横断する道が開けたのだ。
その後1913年には日本でもシベリア鉄道経由でヨーロッパ各地へ向かう国際連絡運輸が始まり、日本からヨーロッパへ向かう鉄道の切符が発売されることになったのだ。
だが、翌1914年に第一次世界大戦が勃発し国際連絡運輸は中断。その後もロシア革命、シベリア出兵などが続き、日欧間の国際連絡運輸が再開されたのは1927年になってからである。
しかしながらそんな鉄道黄金期は長くは続かなかった。
1939年に第二次世界大戦が開戦し、1941年の独ソ開戦でユーラシア大陸を横断する鉄路は寸断され日欧間の国際連絡運輸は突然幕を下ろすことになる。日本からヨーロッパへ1枚の切符で旅することができたのは、実質わずか十数年の短い期間だけだったのだ。
1945年に戦争が終わりシベリア鉄道も再開するが、それから数年の時を経て日本が国際社会に復帰した時には、すでに飛行機が大陸を横断する時代になっていた。
今回からしばらく、二つの大きな戦争に挟まれたわずかな期間、鉄道が世界最速の長距離輸送手段であった時代の大陸横断の旅を、当時の時刻表を用いて再現してみる。時台は、第二次世界大戦直前の1939年8月。鉄道が世界最速の移動手段として光り輝いていた時代の最後の瞬間である。
事の始まり
旅を始める前に、僕がなぜ戦前の国際連絡運輸なんかに興味を持ったかという話を少々。
そもそものきっかけは、10年ほど前、偶然戦前の南満州鉄道(満鉄)の時刻表の復刊版を目にし、購入したことである。
満鉄ではどのような列車が運行されていたのだろうかと興味が湧いたのだが、僕の目を引いたのは、巻頭近くにあったこのページであった。
中国からパリまで鉄道??? 運賃が書いてあるということは「大連→パリ」という切符が買えたということか???
僕は結構驚いた。
(ちなみにここで驚いたのは僕の単なる無知で、よくよく調べてみたら今でもモスクワから北京までの直通定期列車は運行されていて、北京からモスクワ経由でヨーロッパ各地まで鉄道で移動することは可能である)
そこから欧亜連絡鉄道にがぜん興味が湧いてきた。実際どのようなルートで移動していたのか、当時の鉄道事情がどうだったのかが気になり、第二次大戦直前の世界中の時刻表を集めだしたのである。
その後数年かけて日本からロンドン、パリまでの当時の時刻表を集め始め、その時代の鉄路の全容が判明したため、今度はこのデータを使って乗り換え案内サイトを作ったら面白いのではないかと考えた。そして作ったのが仮想乗換案内・欧亜大陸鉄道である。
これを使って日本ロンドン間の最速ルートを探り、今回空想旅行のとしてご紹介する。
余談だが、この満州の時刻表の欧亜連絡時刻表のページにはかなり壮大な誤植がある。
この時刻表の左の地名の一覧が大連からパリまで10個であるのに対し、時刻は12か所分並んでいて2つ足りない。僕の中で長らく謎だったのだが、世界中の時刻表を確認してやっと真相がわかった。どうやら左の地名が完全に間違っているようなのだ。
幕斯科(モスクワ)→リガ→伯林(ベルリン)と並んでいる部分、正しくはモスクワ→ミンスク→ストルプツェ→ワルシャワ→ベルリンが正しいと思われる。これならば当時の時刻表と時刻が一致する。
当時、モスクワ―ベルリン間のルートは、主にバルト三国を経由とポーランドを経由の2ルートがあったのだが、それを取り違えた結果と思われる。
まあ、しかし、そんな間違えが許されるぐらいおおらかな時代だったのか、あるいは、単に鉄道での国際連絡運輸なんて、実際の所は誰も利用していなかったのかはわからない。
ルート紹介
前置きはここまでにして、今回の空想旅行の説明。旅の目的地はロンドンである。東京からロンドンまでの当時の最速のルートで旅をする。
1939年8月3日の午後に東京を出発し、遥か1万4000キロ先の彼方のロンドン・ビクトリア駅に到着するのは、12日後の8月15日の夕方である。最速ルートなので、道中は全て車船中泊。12連泊の移動旅などというものを当時行った酔狂な人物がいたのかどうかは謎である。
ちなみに、鉄道は当時ヨーロッパへの最速の移動手段であったのだが、実際は多くの旅客は船旅を選んだという。日本郵船の豪華客船で旅をすると、横浜からロンドンまで約50日間で、料金は一等A船室で104円、鉄道よりも安い料金だった。さらにアメリカ周りだと、その半分程度の日程でヨーロッパへ向かうことができたそうだ。
車内にシャワーがない時代、連続12車中泊など現実的ではないと思うので、実際の旅行者は途中どこかで宿泊していたはずで、おそらくはアメリカ周りと大差ない移動時間になっていたはずだ。複数の国を通過するためビザの入手にも苦労したらしく、欧亜連絡鉄道を利用した人数はあまり多くはなかったという。しかしながら、放浪記の作者・林芙美子が「下駄で歩いた巴里」という欧亜連絡運輸の紀行文を残しており、多くはないもののこのルートで旅した者もいたはずである。
なお、1939年9月1日には、ドイツ軍がポーランドに侵攻を開始する。2日後の9月3日にイギリス・フランスはドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦の幕が上がり世界は戦火に包まれることになる。本来であれば戦争の足音が聞こえる旅になったであろうが、そこは空想旅行ということで、戦争は忘れて旅に出ることにする。
タイムスリップ乗り換え案内 欧亜大陸鉄道紹介
今回の記事で紹介する時刻表データは筆者のサイト欧亜大陸鉄道に入力してあり、1939年当時の国際連絡運輸の時刻表検索を行うことができる。
検索の仕方は簡単で、路線図から出発したい路線を選び、表示された駅の中から出発駅と到着駅を選び検索ボタンを押すだけ。
例えば、今回の日程だと
①路線図から「東京-下関」(東海道本線・山陽本線)を選択
②東京駅の「出発」ボタンを押す
③路線図に戻って「ロンドン-ドーバー」(サザン鉄道本線)を選択
④ロンドン ビクトリア駅の「到着」ボタンを押す
⑤日時に「1939年8月3日 15:00」をセットし、「検索」ボタンを押す
今回のルート、東京-ロンドン12泊13日の鉄道旅のルートが表示される。
太平洋戦争直前の東海道線・山陽線の時刻表が入力されているので、沿線の方はお近くの駅からロンドンやベルリンまでの経路が探索できます。
では、次回からはいよいよロンドンに向けた旅へ出発する。出発の地はもちろん東京駅。駅のホームから万歳三唱で見送られて一路欧州へ向かうことにする。
- 満州支那汽車時間表 昭和15年8月号 (1940年) ジャパン・ツーリスト・ビューロー / 復刻版 (2009年) 新潮社
- 鉄道省編纂 汽車時間表 附汽船自動車發着表 昭和9年12月号 (1935年) ジャパン・ツーリスト・ビューロー / 復刻版 (1999年) JTB
0 件のコメント:
コメントを投稿